2016年3月25日金曜日

「はじめの半歩」を飛んでみた!

今回からは『東京新のんき連』の誕生から、東京での阿波おどり踊りデビュー(2010年小金井阿波おどり)までを何回かに分けてご紹介したいと思います。


私達夫婦も徳島の『新のんき連』に通い始めて4~5年目頃には年齢も50歳に近づき、往復の車の運転も月に何回もだと辛く感じるようになってきました。
出来れば東京で練習の場を設けたいのですが、一連を起こすほどの力も人脈もなく、また他の連では独特の連打では合わせ難いため『新のんき連』の練習は出来ませんでした。

それならば、近い将来は阿波おどり連として活動するための阿波踊りの練習会を作ってみよう思い立ち、2009年の春先の徳島での『新のんき連』の練習の時に、池田連長に相談したところ賛成していただき、東京に戻り友人・知人・親戚などに声をかけ阿波踊りの練習グループを立上げる事にいたしました。


何事もまずは一歩、いや半歩でも踏み出さなければ始まらず、先行きの事などは少しでも進めてから考えていこうと思い、小さな力の私達夫婦の大きな決断でした!


その阿波踊りの練習グループは、新のんき連の『新』と高円寺の『高』を一文字ずついただき『新高会』と名乗り、最初の練習会を2009年5月に東高円寺のダンススタジオを借りて行ったところ、10名前後の希望者が集まってくれました。




最初の練習会でしたのでまだ楽器もなく簡単な活動説明をした後に、早速CDを音源にして踊りの練習を行ったところ、参加者全員の真剣に阿波踊りを習おうとする姿勢が伝わってきて、不安一杯で始めた『新高会』に明るい将来を感じさせてくれました!


その後翌月には2回目の練習会をセシオン杉並の音楽室でお囃子を中心に予定しておりましたので、『新のんき連』の練習参加も兼ねて楽器(鉦・大太鼓・締太鼓・笛)の調達に徳島へ行ったり、三味線は中野の飲み屋さんでの知り合いの三味線のお師匠さんを『新高会』に巻き込み、中古の三味線も用意していただくなど、『新高会』の鳴物練習会が開催できるように準備に飛び回りました。

そして迎えた2回目のお囃子を中心とした練習会では、鉦・大太鼓・締太鼓や笛・三味線といった和楽器に触れる事が初めての者ばかりでしたので、演奏すると言うよりは好きな楽器を持ち、先ずは音を出してもらい楽しんでもらう事だけの練習会にいたしましたが、5月の練習会よりさらに入会希望者の人数も増えて、15人が『新高会』の正式メンバーになってもらいました。

メンバーの殆どが20歳代~30歳代の若者で、ミュージシャンや音楽経験者もいて、踊り子だけでなく鳴り物も『新高会』の将来を感じさせる仲間が集まり始めました。
第二回練習会
カジくん初めての太鼓
結くん初めての三味線
15人のメンバーが集まったとは言え季節は阿波踊りシーズン直前の6月です。
当然今年の高円寺には連として参加する事は出来ません。
来年以降の高円寺参加になりますが、私達夫婦以外は阿波おどりの経験がなく、来年もし高円寺に参加出来るようになっても未経験者だけでは不安を残します。

そこで高円寺阿波おどりの経験をさせておく事も大切との思いから、『江戸歌舞伎連』の中村連長にお願いし、その年限定で初心者の踊り子8人と私達夫婦の合わせて10人が、『江戸歌舞伎連』で高円寺阿波おどりに参加させていただく事になりました。
『江戸歌舞伎連』では、6月後半の練習から踊り子だけは参加させていただき、『新高会』の鳴り物メンバーには9月からの本格練習再開を約束し、『新高会』の活動を一時期休む事にいたしました。

夫婦二人で春先から準備を始めた『新高会』は、その年の夏には15人となり「はじめの半歩」を無事に元気良く飛び出す事が出来ました!

何事も「やってみなはれ!」という事ですかね!!

次回はお世話になった『江戸歌舞伎連』での活動など、『新高会』メンバーの2009年・夏をご紹介したいと思います。
第一回練習会用チラシ


2016年3月18日金曜日

新のんき連との出会い


こんにちは。笠井です。
前回は私の阿波おどり人生の前半部分についてお話させていたできましたが、今回は後半戦。
私が阿波おどりを再開してから新のんき連と出会うまでについてお話ししたいと思います。

子供の頃の阿波おどりを卒業する頃には他の楽しい遊び(いろいろと??)を覚えて自然に阿波おどりから離れてしまい、大学を卒業し社会に出ると仕事で大阪や埼玉に長く住むことになり、阿波おどりからはさらに離れてしまいました。

転機がおとずれたのは40歳頃のとき。
住まいが高円寺と同じ杉並区内の荻窪に戻ってきたことから始まります。
お祭りが大好きな家内が阿波おどりを踊りたいと言い出し、私が子供の頃に一緒に踊っていた熊木氏が所属している『舞蝶連』に入連させ熊木氏に踊りの指導をお願いしました。
当初の私は仕事で練習には参加できませんでしたが、本番では連の警備などのお手伝いをさせていただくうちに、大太鼓くらい叩いてみたらの誘いから『舞蝶連』に入連しました。

『舞蝶連』では、8月お盆の徳島阿波踊りに『徳島・菊水連』との友好連関係から毎年参加しておりましたが、私達夫婦も連とは別行動で徳島に行っておりました。(少しでも長い日程を希望していたため)
その徳島では、昼間は市民文化センターと郷文会館の選抜阿波踊りをダブルヘッダーで見て、夜は『舞蝶連』での活動(1日か2日)以外は桟敷や街中の阿波踊りを見て廻っていました。

そしてそんな私たちに今後の阿波おどり人生を左右する出会いが訪れます。
徳島の桟敷で、とっても軽快なテンポで楽しそうに踊る連が私達夫婦の心に留まったのです。
そうです!
姓億(せいおく)連長が率いる『新のんき連』です!!



徳島では最古参(発足は大正時代)の『のんき連』から、当時のスター踊り子の姓億政明氏が昭和43年頃に『新のんき連』として独立し、姓億連長独特の早めの軽快なテンポに合わせた阿波踊りは50年近く経った今でも連のカラーとなっております。

また姓億連長の浮世絵の写楽顔に似たポーズは「写楽踊り」と称され、『徳島・葵連』の小野正巳連長の「ポッポ踊り」と並び、阿波踊りの世界ではミスター阿波踊りと呼ばれる程のスーパースターでした。


私達夫婦が『新のんき連』に飛び込んだのはそんな姓億連長が引退する年の事で、姓億連長の最後の藍場浜での雄姿を見させていただいた年です。
その年の『新のんき連』は西新町に詰所を構えておりましたが、ご祝儀を持ち詰所に飛び込みで「東京から来ましたがとても素晴らしい阿波踊りをありがとうございました」と言って帰ってきました。

その後9月に入り東京に戻った私たちに『新のんき連』の東事務局長からお礼の連絡をいただき、それから『新のんき連』とのお付き合いが始まりました。


『新のんき連』とのお付き合いは始まりましたが、高円寺では『舞蝶連』に所属しておりお誘いはありましたが『新のんき連』の練習には参加せず、『新のんき連ファン』として過ごして『新のんき連』の阿波踊りを見ておりました。

その後、私の仕事が土・日が中心の仕事となり、『舞蝶連』の活動には参加出来なくなり、『舞蝶連』の古山会長に相談し連を離れる事になりました。

所属連もなく土・日が仕事で阿波踊りから離れてしまいそうになりましたが、『新のんき連』の東事務局長から5月からは平日(3~4回)練習が始まるので一度練習に来てみなさいとお誘いをいただき、平日はかなり自由に時間が取れたため『新のんき連』の練習に参加させていただきました。
平成19年の私と家内

『新のんき連』の練習に参加すると、独特の連打の大太鼓の叩き方は一度や二度の練習では習得できないと思い、『新のんき連』に入連すると言うよりもあの連打を覚えたいとの思いで、平日に時間を取り徳島に通うようになりました。
通うようになり少し経ってから、「次回は車で来て大太鼓を借りて帰りたいのですが宜しいでしょうか?」とあつかましくもお願いをし、車で徳島の練習に参加するようになりました。
平成19年の新のんき連

東京に戻ると近所の音楽スタジオに行き独特の連打の練習をし、徳島に行く度にパワーアップしようと心がけておりました。
『新のんき連』の練習場所は徳島城公園の武道館脇で、助任川を挟み『娯茶平』の練習場の対岸のため、人数の多い『娯茶平』の鳴物に負けない音で叩けるように、テンポだけでなくパワーも求められました。


7月に入ると池田連長から衣装と入連申込書を渡され、「8月のお盆には来れるんでしょ!」とありがたいお言葉をいただきました。
普段の土・日は仕事でしたがお盆ぐらいは夏休みが取れましたので、本当に嬉しいお言葉でした!

普通にしていると美人なのに
たまに変な顔をします

そんなこんなの『新のんき連』一年目を終え、翌年からは通常月は月に一回程度ですが、春からは月に2~3回は徳島まで車で練習に通うようになりました。
平日の練習は一日置きにあるので、間の日は高知などへドライブに行き1回の徳島行きで2回の練習に参加する事もありました。
夜9時の練習終了後に東京に車で帰るのは結構きつかったです。

それでも徳島にいる時は楽しく、徳島の連員さん達からは「いつ来たの?」ではなく「いつ帰ってきたの?」と聞かれるようにもなっていて、軽快で楽しいテンポがいつしか身体に染み渡っていました。

新のんき連の座り踊り

徳島の『新のんき連』に所属していた時代の高円寺阿波おどりですが、親同士がお友達の『江戸浮連』の河原連長に事情を説明して、『新のんき連』でもありながらも『江戸浮連』で高円寺阿波おどりにも参加させていただきました。
『江戸浮連』の皆様には心より感謝申し上げます。

そして・・
平成20年8月 徳島新聞 阿波おどり特集版

当時の徳島新聞にも掲載していただいてしまいました。
本当に憧れと負けん気だけでやってきた私たちですが、こうやって紹介いただくのは照れくさくも嬉しかったです。


これが私と新のんき連との出会いです。

少し長くなりましたが、最後までお付き合いいただきありがとうございます。
次回からはついに『東京新のんき連』の結成秘話に迫ります。

2016年3月10日木曜日

ぞめく心の始まり


昭和32年の8月にパル商店街(当時は高南商盛会)で第一回目の高円寺阿波おどりが開催され、私はその半年後にルック商店街(当時は新高円寺通り商店会)で産声を上げました。
もちろんその当時の記憶はほとんど無いので、第8回(昭和39年)頃から記憶を辿っていきたいと思います。


と言っても、昭和39年は先の東京オリンピックが開催された年で、当時小学1年生だった私の記憶は、阿波おどりよりも学校の友人たちと聖火リレーの応援に行った事が一番の想い出です。
小学校の授業で画用紙と割り箸で日の丸の旗を作り、路面電車がなくなった青梅街道へ杉八小学校の全校生徒で応援しました。

1954年の東京オリンピック

「高円寺阿波おどり50周年記念誌」によると、オリンピック翌年の第9回(昭和40年)には踊りが青梅街道までの800㍍になったとあり、昭和41年の4月に高円寺辺りの中央線が完全高架化されたとの事です。


私の記憶では、高架化される前の中央線の踏切の所から踊り出し、青梅街道まで踊った記憶がありますので、第9回には間違いなく参加していたと思います。
ですが、ルック商店街の中の商売家(襖紙の問屋・笠井商店)の子供でしたので、もっと小さい頃から踊っていたかもしれませんね。


筆者の幼少時(笠井商店前)

当時の阿波おどりは、パルからルックまでを大声をはりあげながら、大人も子供もただ元気良く踊り通し、それを2回繰り返すと終点です。
(途中で何ヶ所か休憩をいれたような気も?)
終点は青梅街道の現在のみずほ銀行・当時はお菓子屋さんでした。

終点まで来ると商店街の方が、お菓子の入った大きな紙袋(子供だけかな?)とお赤飯、そして銭湯の入浴券を配ってくれました。

当時は高円寺の南口だけでも銭湯が5~6軒はあり、いただいた入浴券は、これらのどの銭湯でも入浴が出来る券です。


筆者・小学2年生頃(新高連)

当時は自宅にお風呂がある家は少なく、私も毎晩銭湯に行っていました。
(夜に親が銭湯代を子供達の分もまとめて支払う)
我家の斜向かいには馬橋湯という銭湯があり、馬橋湯では夕食前には近所の子供達が集まり銭湯遊びするのが日課でしたが、阿波おどりに出た後はこの共通入浴券を使って、友人達といつもと違う銭湯へ探検に行くのが楽しみでした。



この頃には高円寺でも幾つかの阿波踊り連が出来ています。
私は我が家が新高円寺通り商店会に入っていたため、新高円寺通り商店会の連で、二人の兄やお店の店員さん達と一緒に踊っておりました。


当時、中学生で兄貴分だった現在の高円寺・菊水連の浅賀会長と、私の一つ年上の高円寺・華純連の熊木氏達と一緒に、夏休みになると杉六小学校に集まり練習をして8月末の本番を迎えてました。
(親に阿波踊りの練習に行くと言って夜遊びに行くのが楽しかったような?)

※当時(約50年ほど前)の新高円寺通り商店街では、商店会や多くの商店主が中心となり、幾つかの連(『新高連』『ひょっとこ連』『菊水連』『新若連』)が次々と結成されて、私は『新高連』を経て『菊水連』に入りました。

『新高連』は昭和43年頃になくなったようです。
・・なにぶん50年も前の子供の頃(当時10歳前後)の記憶ですので、曖昧な部分はご容赦ください。


筆者(写真右) 中学時代の友人と(菊水連)

中学生になる頃には高円寺の南口に「18㍍道路」が部分的に開通します。
(今の高南通りで、ちょうど「中央演舞場」の所だけが先に開通)
今までの狭い商店街だけの阿波おどりが「18㍍道路」で各連とも少しずつ演舞構成を入れた阿波おどりが始まりました。
『菊水連』でも連凧踊り(一人の曳き手に、十人前後の凧役が連なる演出)などを取り入れた阿波おどりを踊った事が思い出されます。


私にとっての『子供の頃の高円寺阿波おどり』は、学校の友達ではなく近所の友達やお兄さんお姉さん達と楽しい時間を過ごし、学校では教わらない子供から大人までの縦社会を教えてもらい、今では私記憶の中で『楽しい阿波おどり学校』になっております。

ごあいさつ

こんにちは
『東京新のんき連』連長の笠井清司です。
本ブログをご覧いただき、誠にありがとうございます。
また、平素は連活動へのご支援・ご声援を賜り、厚く御礼申し上げます。


さて、今年から連内の広報委員による東京新のんき連・広報ブログが始まり、阿波おどりや連活動そして高円寺の街の事など、連員の目線で紹介させていただいております。

その『広報ブログ』開設に合わせて、連員から「連長も何か書いてください!」と依頼されたため、私も『連長コラム・花火』を開設し、私の阿波おどりに対するささいな思いなどを綴っていく事にしました。

お付き合いの程よろしくお願いします。

ちなみに、なぜタイトルが『花火』なのかというと、 私たち東京新のんんき連の踊り子の衣装には花火の絵柄が描かれていて、花火は新のんき連のトレードマークであるからです。 

また、昨年芸人さんが執筆して芥川賞を受賞された『火花』をもじらせていただきました。


私のコラムではまず
『子供の頃の高円寺阿波おどり』
『新のんき連との出会い』
『東京新のんき連発足』
について、何回かに分けて書きたいと思っています。

私の阿波おどり人生は、子供の頃に始めて、少し大きくなったら阿波おどりを離れ、また中年になってからリスタートするという、煙管(キセル)みたいな阿波おどり人生です。
その私が煙管していた期間に、多くの方々の大変な努力により高円寺阿波おどりがとても大きな規模となり、素晴らしいお祭りへと育てていただきました事は感謝の気持ちでいっぱいです!

そんな高円寺阿波おどりを、今度は私も身体が動かなくなるまで精一杯続けていく所存ですので、今後ともご指導・ご鞭撻の程よろしくお願い申し上げます。